2017年5月20日土曜日

産業としての農業。

晴れて穏やかな一日。
朝の散歩でワラビが一掴み。それとコシアブラの木を見つけた。丁度手の届く枝に一回分が採れた。これで夕食に二品。ワラビは、御浸しに。灰をまぶし、熱湯を注ぎ夕方まで置くと、アクが抜けて美味しくいただける。コシアブラは天ぷらに。自然の旬のエネルギーをいただく。

山形村の農業は産業だったんだ、と今更ながら、認識している。
短編小説集「重助菩薩」のデザインをすることで、哲学者「筧次郎」さんを知ることになり、その付録としてつけられる講演をまとめた「食と健康」を読んでのこと。

以下、抜粋…《農業というのは、本来は「人間が考え出した自然の恵みを引き出して生きる方法」ということができます。農業をやれば他人の富や労働を奪わなくても自立して生きていけるし、工業と違って資源を減らすことが無い。子々孫々まで末永く生きることができると思っていました。
ところが、今の農業は工業社会を成り立たせている産業の一部門ですから、当然工業と同じ原理で営まれています。簡単に言えば「いくら投資しても利潤が出ればよい」ということです。今の農業は自立性も永続性もない。膨大なエネルギーを使おうと、貧しい人の労働を収奪しようと、要するに儲かればよいわけです。…途中略…、今の単なる金儲けの手段になってしまった農業と区別するために「百姓暮らし」と言っています。》

別に筧さんは、今の農業を批判してるわけではなく、食の話へのイントロなのですが、私には、農業を産業として認識させたくだりです。先日読んだ「銃・病原菌。鉄」ともリンクするところがあるのは面白い。

今朝のカエル。

山吹の花が咲き始めた.1400メートル。

ラベンダーとニラを芽出しポットに蒔いた。

山シャクヤクが咲いた。

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